縁結びの地・奥出雲で採れた天然水「仁多水(じんおおすい)」の公式ネットショップ

奥出雲の水「仁多水」

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水は全て繋ぐ

2020年8月

三角錐状に塩を盛り上げた趣ある盛り塩。料亭の門口、旅館の玄関などで目にしたことはありませんか?これは、良い客をたくさん招き嫌な客には退散願う「招客」と外から来る穢れを祓って屋内を清浄に保つ「穢れ祓い」2つの意味を併せ持つものですが、それぞれ歴史的背景が異なる2つのルーツから誕生し広まっていきました。
三角錐状に塩を盛り上げた趣ある盛り塩。料亭の門口、旅館の玄関などで目にしたことはありませんか?これは、良い客をたくさん招き嫌な客には退散願う「招客」と外から来る穢れを祓って屋内を清浄に保つ「穢れ祓い」2つの意味を併せ持つものですが、それぞれ歴史的背景が異なる2つのルーツから誕生し広まっていきました。

三角錐状に塩を盛り上げた趣ある盛り塩。料亭の門口、旅館の玄関などで目にしたことはありませんか?これは、良い客をたくさん招き嫌な客には退散願う「招客」と外から来る穢れを祓って屋内を清浄に保つ「穢れ祓い」2つの意味を併せ持つものですが、それぞれ歴史的背景が異なる2つのルーツから誕生し広まっていきました。

【千客万来】

千客万来の意味は、中国の後宮が発祥とされています。後漢崩壊後、百年の混乱を鎮めて中国全土を統一、西晋という王朝の初代皇帝となった司馬炎は、太秦9年(273年)7月自分の後宮(日本の大奥)に入れる女性選びのために詔勅をもって婚姻を暫時禁止、5千人もの宮女を召し上げたと正史に残されています。それだけでも大変な暴挙ですが、さらに呉を滅亡させた後281年3月、呉の第4代皇帝であった孫皓の後宮5千人を加え、合計1万人もの宮女を召し抱え広大な女の園を作り上げたとか。
「英雄色を好む」司馬炎は、その広大な後宮を夜毎、羊に引かせた車に乗って周り、この羊の車が止まった所の女性の元で一夜を共にする遊興に耽っていたので、宮女たちは自分の寝所に皇帝を招こうと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛って皇帝の来駕を待ったと言われます。(羊は竹の葉を食べ、塩を舐めるために立ち止まる)

この統一国家、西晋は僅か50年で滅亡。建国の黎明期に、こんな遊興にうつつをぬかしていれば国が傾くのも当然かもしれませんが、この逸話の背景には、皇帝の寵愛を奪い合うだけではない政治的策謀が存在しました。
後宮は皇帝が女性を囲い後継ぎをもうける場と思われがちですが、それなら何千人もの女性は必要ありません。後宮の女性たちは、皇子を産むだけが目的ではなく、出身母体である地方豪族の外交官兼スパイであり、自分の背負う一族郎党の安寧と発展のためのハニートラップでした。中国史上の4大美人(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)は、いずれも一族に多大な利益を齎しています。皇帝側からすれば、彼女達は有力氏族の動きを牽制する人質でもあったのです。

後宮に入る宮女達は出身母体の力関係で上位から三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人という官位が歴然と存在し、それぞれの格式にあった待遇が約束されていました。けれど、中国史上、幾度となく皇帝が特定の宮女にのめり込み、特定の外戚勢力を助長し政治腐敗から傾国の原因を招きました。
その意味で、羊の車に乗って夜の相手を決める司馬炎の手法は外戚リスクの回避としては有効で、宮女達は出身一族の運命を背負って盛り塩をしていたのです。こうまでして外戚対策した司馬炎ですが、皇后・楊氏の父・楊駿が朝政を掌握し国を専権したことで、あっけなく滅んでいきます。

千客万来の意味は、中国の後宮が発祥とされています。後漢崩壊後、百年の混乱を鎮めて中国全土を統一、西晋という王朝の初代皇帝となった司馬炎は、太秦9年(273年)7月自分の後宮(日本の大奥)に入れる女性選びのために詔勅をもって婚姻を暫時禁止、5千人もの宮女を召し上げたと正史に残されています。それだけでも大変な暴挙ですが、さらに呉を滅亡させた後281年3月、呉の第4代皇帝であった孫皓の後宮5千人を加え、合計1万人もの宮女を召し抱え広大な女の園を作り上げたとか。
「英雄色を好む」司馬炎は、その広大な後宮を夜毎、羊に引かせた車に乗って周り、この羊の車が止まった所の女性の元で一夜を共にする遊興に耽っていたので、宮女たちは自分の寝所に皇帝を招こうと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛って皇帝の来駕を待ったと言われます。(羊は竹の葉を食べ、塩を舐めるために立ち止まる)

この統一国家、西晋は僅か50年で滅亡。建国の黎明期に、こんな遊興にうつつをぬかしていれば国が傾くのも当然かもしれませんが、この逸話の背景には、皇帝の寵愛を奪い合うだけではない政治的策謀が存在しました。
後宮は皇帝が女性を囲い後継ぎをもうける場と思われがちですが、それなら何千人もの女性は必要ありません。後宮の女性たちは、皇子を産むだけが目的ではなく、出身母体である地方豪族の外交官兼スパイであり、自分の背負う一族郎党の安寧と発展のためのハニートラップでした。中国史上の4大美人(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)は、いずれも一族に多大な利益を齎しています。皇帝側からすれば、彼女達は有力氏族の動きを牽制する人質でもあったのです。

後宮に入る宮女達は出身母体の力関係で上位から三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人という官位が歴然と存在し、それぞれの格式にあった待遇が約束されていました。けれど、中国史上、幾度となく皇帝が特定の宮女にのめり込み、特定の外戚勢力を助長し政治腐敗から傾国の原因を招きました。
その意味で、羊の車に乗って夜の相手を決める司馬炎の手法は外戚リスクの回避としては有効で、宮女達は出身一族の運命を背負って盛り塩をしていたのです。こうまでして外戚対策した司馬炎ですが、皇后・楊氏の父・楊駿が朝政を掌握し国を専権したことで、あっけなく滅んでいきます。

千客万来の意味は、中国の後宮が発祥とされています。後漢崩壊後、百年の混乱を鎮めて中国全土を統一、西晋という王朝の初代皇帝となった司馬炎は、太秦9年(273年)7月自分の後宮(日本の大奥)に入れる女性選びのために詔勅をもって婚姻を暫時禁止、5千人もの宮女を召し上げたと正史に残されています。それだけでも大変な暴挙ですが、さらに呉を滅亡させた後281年3月、呉の第4代皇帝であった孫皓の後宮5千人を加え、合計1万人もの宮女を召し抱え広大な女の園を作り上げたとか。
「英雄色を好む」司馬炎は、その広大な後宮を夜毎、羊に引かせた車に乗って周り、この羊の車が止まった所の女性の元で一夜を共にする遊興に耽っていたので、宮女たちは自分の寝所に皇帝を招こうと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛って皇帝の来駕を待ったと言われます。(羊は竹の葉を食べ、塩を舐めるために立ち止まる)

この統一国家、西晋は僅か50年で滅亡。建国の黎明期に、こんな遊興にうつつをぬかしていれば国が傾くのも当然かもしれませんが、この逸話の背景には、皇帝の寵愛を奪い合うだけではない政治的策謀が存在しました。
後宮は皇帝が女性を囲い後継ぎをもうける場と思われがちですが、それなら何千人もの女性は必要ありません。後宮の女性たちは、皇子を産むだけが目的ではなく、出身母体である地方豪族の外交官兼スパイであり、自分の背負う一族郎党の安寧と発展のためのハニートラップでした。中国史上の4大美人(西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃)は、いずれも一族に多大な利益を齎しています。皇帝側からすれば、彼女達は有力氏族の動きを牽制する人質でもあったのです。

後宮に入る宮女達は出身母体の力関係で上位から三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人という官位が歴然と存在し、それぞれの格式にあった待遇が約束されていました。けれど、中国史上、幾度となく皇帝が特定の宮女にのめり込み、特定の外戚勢力を助長し政治腐敗から傾国の原因を招きました。
その意味で、羊の車に乗って夜の相手を決める司馬炎の手法は外戚リスクの回避としては有効で、宮女達は出身一族の運命を背負って盛り塩をしていたのです。こうまでして外戚対策した司馬炎ですが、皇后・楊氏の父・楊駿が朝政を掌握し国を専権したことで、あっけなく滅んでいきます。

【穢れ祓い】

一般家屋での盛り塩は、もうひとつの意味「穢れ祓い」を目的とします。「穢れ」と言うと禍々しいもの悪しきことを思いますが、原初の穢れに不浄感はなく、神秘な出来事、異変的な事態、畏怖すべき事象、日常の場から隔離する習俗が「穢れ」として存在していました。
穢れの本質は「血」の呪力で、古代、神に捧げられる供物は血であり、生贄(いけにえ)という死穢であり、産穢も血を流す非日常的な畏怖の対象でした。これら「死」「産」「血」の穢れの概念は、様々な宗教観に取り込まれ醸成された形で日本に伝わってきたようです。
この穢れの概念に不浄の意味が付加され、穢れ祓いという儀式が文献上現れるのは646年の日本書紀からです。死者たちを見た伊弉諾尊が黄泉の国から帰り「いやな見る目の厭わしい」と言って穢れを祓う海水での「潮禊(しおみそぎ)」が最初です。
この穢れ祓いが次第に定着し、穢れの概念は「忌まわしいもの」へ変化し、穢れを祓わずそのまま身に絡っていれば、いずれ祟りが降りかかる恐怖の対象へと姿を変えていきます。
日本で穢れが不浄のものとして定着したのは967年に施行された「延喜式」からで、この法令にはっきり「親を亡くした役人は穢れているので、49日間喪に服すこと」と規定されました。
一般家屋での盛り塩は、もうひとつの意味「穢れ祓い」を目的とします。「穢れ」と言うと禍々しいもの悪しきことを思いますが、原初の穢れに不浄感はなく、神秘な出来事、異変的な事態、畏怖すべき事象、日常の場から隔離する習俗が「穢れ」として存在していました。
穢れの本質は「血」の呪力で、古代、神に捧げられる供物は血であり、生贄(いけにえ)という死穢であり、産穢も血を流す非日常的な畏怖の対象でした。これら「死」「産」「血」の穢れの概念は、様々な宗教観に取り込まれ醸成された形で日本に伝わってきたようです。
この穢れの概念に不浄の意味が付加され、穢れ祓いという儀式が文献上現れるのは646年の日本書紀からです。死者たちを見た伊弉諾尊が黄泉の国から帰り「いやな見る目の厭わしい」と言って穢れを祓う海水での「潮禊(しおみそぎ)」が最初です。
この穢れ祓いが次第に定着し、穢れの概念は「忌まわしいもの」へ変化し、穢れを祓わずそのまま身に絡っていれば、いずれ祟りが降りかかる恐怖の対象へと姿を変えていきます。
日本で穢れが不浄のものとして定着したのは967年に施行された「延喜式」からで、この法令にはっきり「親を亡くした役人は穢れているので、49日間喪に服すこと」と規定されました。

一般家屋での盛り塩は、もうひとつの意味「穢れ祓い」を目的とします。「穢れ」と言うと禍々しいもの悪しきことを思いますが、原初の穢れに不浄感はなく、神秘な出来事、異変的な事態、畏怖すべき事象、日常の場から隔離する習俗が「穢れ」として存在していました。
穢れの本質は「血」の呪力で、古代、神に捧げられる供物は血であり、生贄(いけにえ)という死穢であり、産穢も血を流す非日常的な畏怖の対象でした。これら「死」「産」「血」の穢れの概念は、様々な宗教観に取り込まれ醸成された形で日本に伝わってきたようです。
この穢れの概念に不浄の意味が付加され、穢れ祓いという儀式が文献上現れるのは646年の日本書紀からです。死者たちを見た伊弉諾尊が黄泉の国から帰り「いやな見る目の厭わしい」と言って穢れを祓う海水での「潮禊(しおみそぎ)」が最初です。
この穢れ祓いが次第に定着し、穢れの概念は「忌まわしいもの」へ変化し、穢れを祓わずそのまま身に絡っていれば、いずれ祟りが降りかかる恐怖の対象へと姿を変えていきます。
日本で穢れが不浄のものとして定着したのは967年に施行された「延喜式」からで、この法令にはっきり「親を亡くした役人は穢れているので、49日間喪に服すこと」と規定されました。

【塩の持つ力】

伊弉諾尊が黄泉の国の穢れを祓うために行った禊祓いは、海水で体を洗う「潮禊(しおみそぎ)」でした。身体を洗って穢れを祓う風習は世界で行われ、キリスト教やユダヤ教、ヒンドゥー教でも「沐浴」で穢れを祓い、仏教や神道で行われる「水垢離(みずごり)」も穢れ祓いの儀式です。
この日本書紀にある「潮禊」が「水で体を洗い清める」「塩で清める」ことに分かれ、塩そのものに穢れ祓いの力が備わっていると考えられていきます。
葬儀や法事の仏事では、お清め塩を撒いてから自宅に入る習俗が残り、招かれざる客が帰った後に塩を撒いて験を担ぐ習慣が残り、神道でも神に捧げる祭壇には必ず塩が置かれ、奉納神事だった相撲は必ず清めの塩が土俵に撒かれ、聖書でも地の塩、世の光と謳います。
このように塩に霊験あらたかな力があると信じられた要因には、塩の持つ殺菌力も関係しているようです。
穢れの中で最も忌むべきものは「死穢」で、死臭を発しながら溶けてゆく腐敗を緩和もしくは遅滞させる塩の効果が古くから知られていたことは間違いありません。
戦国時代の戦果としての敵武将の首は、塩桶に入れられ保存され、古代中国の刑罰「ししびしほ」は処刑された犯罪者の体を細切れにして塩漬けにして犯罪被害者や住民に配り、死者の尊厳さえも足蹴にして罰を与えるものでした。
伊弉諾尊が黄泉の国の穢れを祓うために行った禊祓いは、海水で体を洗う「潮禊(しおみそぎ)」でした。身体を洗って穢れを祓う風習は世界で行われ、キリスト教やユダヤ教、ヒンドゥー教でも「沐浴」で穢れを祓い、仏教や神道で行われる「水垢離(みずごり)」も穢れ祓いの儀式です。
この日本書紀にある「潮禊」が「水で体を洗い清める」「塩で清める」ことに分かれ、塩そのものに穢れ祓いの力が備わっていると考えられていきます。
葬儀や法事の仏事では、お清め塩を撒いてから自宅に入る習俗が残り、招かれざる客が帰った後に塩を撒いて験を担ぐ習慣が残り、神道でも神に捧げる祭壇には必ず塩が置かれ、奉納神事だった相撲は必ず清めの塩が土俵に撒かれ、聖書でも地の塩、世の光と謳います。
このように塩に霊験あらたかな力があると信じられた要因には、塩の持つ殺菌力も関係しているようです。
穢れの中で最も忌むべきものは「死穢」で、死臭を発しながら溶けてゆく腐敗を緩和もしくは遅滞させる塩の効果が古くから知られていたことは間違いありません。
戦国時代の戦果としての敵武将の首は、塩桶に入れられ保存され、古代中国の刑罰「ししびしほ」は処刑された犯罪者の体を細切れにして塩漬けにして犯罪被害者や住民に配り、死者の尊厳さえも足蹴にして罰を与えるものでした。

伊弉諾尊が黄泉の国の穢れを祓うために行った禊祓いは、海水で体を洗う「潮禊(しおみそぎ)」でした。身体を洗って穢れを祓う風習は世界で行われ、キリスト教やユダヤ教、ヒンドゥー教でも「沐浴」で穢れを祓い、仏教や神道で行われる「水垢離(みずごり)」も穢れ祓いの儀式です。
この日本書紀にある「潮禊」が「水で体を洗い清める」「塩で清める」ことに分かれ、塩そのものに穢れ祓いの力が備わっていると考えられていきます。
葬儀や法事の仏事では、お清め塩を撒いてから自宅に入る習俗が残り、招かれざる客が帰った後に塩を撒いて験を担ぐ習慣が残り、神道でも神に捧げる祭壇には必ず塩が置かれ、奉納神事だった相撲は必ず清めの塩が土俵に撒かれ、聖書でも地の塩、世の光と謳います。
このように塩に霊験あらたかな力があると信じられた要因には、塩の持つ殺菌力も関係しているようです。
穢れの中で最も忌むべきものは「死穢」で、死臭を発しながら溶けてゆく腐敗を緩和もしくは遅滞させる塩の効果が古くから知られていたことは間違いありません。
戦国時代の戦果としての敵武将の首は、塩桶に入れられ保存され、古代中国の刑罰「ししびしほ」は処刑された犯罪者の体を細切れにして塩漬けにして犯罪被害者や住民に配り、死者の尊厳さえも足蹴にして罰を与えるものでした。

【地の塩となった大塩平八郎】

江戸後期の陽明学者で大坂東町奉行与力。辞職後は家塾洗心洞を開く。1828年九州大洪水より断続的に天災による異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉、打ち続く凶作で米価は高騰し飢餓による死者が続出。大塩平八郎は市中の惨状を無視できず、奉行所に難民救済を直訴するも叶わず1837年2月挙兵、打毀を行うも鎮圧され自害。

この乱は幕政の中枢都市大坂で起こり、しかも元与力で著名な陽明学者であった人物が主謀したことで、その影響は大きく、幕政担当はこれを契機に天保の改革に取り組むも、一般民衆の中には「大塩残党」を名のる越後柏崎の生田万(いくたよろず)の乱、備後(広島県)三原の一揆、摂津(大阪府)能勢の山田屋大助の騒動など連鎖反応が起こりました。
潜伏先を探り当てられ大塩平八郎が養子格之助と共に火薬を用い自害した為、遺体は本人と識別できないほどに損壊。それ故「大塩はまだ生きていて逃亡」説が天下に流れ、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という風説も流れました。
乱の関係者が数百人に上ることに加え未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の2段階の吟味となり、仕置は翌年言い渡され大坂南郊の飛田刑場において行われたものの、塩漬けにされ人相も明らかでない主だった者たちの遺体が十数体磔にされるという異様な光景で、生存説に拍車をかけることになります。
江戸後期の陽明学者で大坂東町奉行与力。辞職後は家塾洗心洞を開く。1828年九州大洪水より断続的に天災による異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉、打ち続く凶作で米価は高騰し飢餓による死者が続出。大塩平八郎は市中の惨状を無視できず、奉行所に難民救済を直訴するも叶わず1837年2月挙兵、打毀を行うも鎮圧され自害。

この乱は幕政の中枢都市大坂で起こり、しかも元与力で著名な陽明学者であった人物が主謀したことで、その影響は大きく、幕政担当はこれを契機に天保の改革に取り組むも、一般民衆の中には「大塩残党」を名のる越後柏崎の生田万(いくたよろず)の乱、備後(広島県)三原の一揆、摂津(大阪府)能勢の山田屋大助の騒動など連鎖反応が起こりました。
潜伏先を探り当てられ大塩平八郎が養子格之助と共に火薬を用い自害した為、遺体は本人と識別できないほどに損壊。それ故「大塩はまだ生きていて逃亡」説が天下に流れ、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という風説も流れました。
乱の関係者が数百人に上ることに加え未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の2段階の吟味となり、仕置は翌年言い渡され大坂南郊の飛田刑場において行われたものの、塩漬けにされ人相も明らかでない主だった者たちの遺体が十数体磔にされるという異様な光景で、生存説に拍車をかけることになります。

江戸後期の陽明学者で大坂東町奉行与力。辞職後は家塾洗心洞を開く。1828年九州大洪水より断続的に天災による異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉、打ち続く凶作で米価は高騰し飢餓による死者が続出。大塩平八郎は市中の惨状を無視できず、奉行所に難民救済を直訴するも叶わず1837年2月挙兵、打毀を行うも鎮圧され自害。

この乱は幕政の中枢都市大坂で起こり、しかも元与力で著名な陽明学者であった人物が主謀したことで、その影響は大きく、幕政担当はこれを契機に天保の改革に取り組むも、一般民衆の中には「大塩残党」を名のる越後柏崎の生田万(いくたよろず)の乱、備後(広島県)三原の一揆、摂津(大阪府)能勢の山田屋大助の騒動など連鎖反応が起こりました。
潜伏先を探り当てられ大塩平八郎が養子格之助と共に火薬を用い自害した為、遺体は本人と識別できないほどに損壊。それ故「大塩はまだ生きていて逃亡」説が天下に流れ、また同年にアメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という風説も流れました。
乱の関係者が数百人に上ることに加え未曾有の大事件であったため、大坂町奉行所と江戸の評定所の2段階の吟味となり、仕置は翌年言い渡され大坂南郊の飛田刑場において行われたものの、塩漬けにされ人相も明らかでない主だった者たちの遺体が十数体磔にされるという異様な光景で、生存説に拍車をかけることになります。

【結界】

自宅での盛り塩は、住まいに結界を張り、穢れから身を守る為に行います。結界は密教から発生した概念で、不可侵な空間領域を設定する行為、聖域と化す儀式です。
盛り塩は伊弉諾尊の「潮禊(しおみそぎ)」に由来するので、古式を求めるなら、にがり成分が含まれている無添加の天日干し製塩法で製造された塩を選びます。(海に囲まれた国内産の殆どが海水系の塩です)
自宅での盛り塩は、住まいに結界を張り、穢れから身を守る為に行います。結界は密教から発生した概念で、不可侵な空間領域を設定する行為、聖域と化す儀式です。
盛り塩は伊弉諾尊の「潮禊(しおみそぎ)」に由来するので、古式を求めるなら、にがり成分が含まれている無添加の天日干し製塩法で製造された塩を選びます。(海に囲まれた国内産の殆どが海水系の塩です)

自宅での盛り塩は、住まいに結界を張り、穢れから身を守る為に行います。結界は密教から発生した概念で、不可侵な空間領域を設定する行為、聖域と化す儀式です。
盛り塩は伊弉諾尊の「潮禊(しおみそぎ)」に由来するので、古式を求めるなら、にがり成分が含まれている無添加の天日干し製塩法で製造された塩を選びます。(海に囲まれた国内産の殆どが海水系の塩です)

【盛り塩の形】

一般で盛り塩が山型に盛られることが多いのは神饌(神に捧げる供物)と同じ形にしたからです。神饌としての盛り塩は各神社、塩の分量もまちまちで、白い器に山型に形よく盛られているのがほぼ共通しています。(伊勢神宮の御塩焼固は特殊で例外)
市販の盛り塩の型は三角錐、八角錐、五角錐、円錐などがあり、八角形は八紘や八方位を意味でこの世の全てのケガレを祓うという意味を含む。五角形は東洋思想の礎である五行を意味し、陰陽道の安倍晴明が咒(しゅ)、まじないに使った桔梗紋や五芒星といった陰陽道の呪法を表していると推察されます。
何れにしても、自分なりに納得できる形や量を用いて結界を張ることが、安心感に繋がります。
一般で盛り塩が山型に盛られることが多いのは神饌(神に捧げる供物)と同じ形にしたからです。神饌としての盛り塩は各神社、塩の分量もまちまちで、白い器に山型に形よく盛られているのがほぼ共通しています。(伊勢神宮の御塩焼固は特殊で例外)
市販の盛り塩の型は三角錐、八角錐、五角錐、円錐などがあり、八角形は八紘や八方位を意味でこの世の全てのケガレを祓うという意味を含む。五角形は東洋思想の礎である五行を意味し、陰陽道の安倍晴明が咒(しゅ)、まじないに使った桔梗紋や五芒星といった陰陽道の呪法を表していると推察されます。
何れにしても、自分なりに納得できる形や量を用いて結界を張ることが、安心感に繋がります。

一般で盛り塩が山型に盛られることが多いのは神饌(神に捧げる供物)と同じ形にしたからです。神饌としての盛り塩は各神社、塩の分量もまちまちで、白い器に山型に形よく盛られているのがほぼ共通しています。(伊勢神宮の御塩焼固は特殊で例外)
市販の盛り塩の型は三角錐、八角錐、五角錐、円錐などがあり、八角形は八紘や八方位を意味でこの世の全てのケガレを祓うという意味を含む。五角形は東洋思想の礎である五行を意味し、陰陽道の安倍晴明が咒(しゅ)、まじないに使った桔梗紋や五芒星といった陰陽道の呪法を表していると推察されます。
何れにしても、自分なりに納得できる形や量を用いて結界を張ることが、安心感に繋がります。

【盛り塩の置き場所】

盛り塩を置く場所は、結界を張る意味で玄関になります。「玄関」は仏教用語で「境界」を意味し、玄は玄妙(悟りの境地)、そこに至るための関門です。
商家の盛り塩のように招客の意味なら、中国の後宮での羊の足止めに由来するので、数は一つ、出入り口の「外」に置きます。
穢れ祓いの結界のための盛り塩なら二つ置きます。神道に置ける結界、神域の境界は2本の柱の鳥居や二対の狛犬が守る中に存在しているように、結界を張る場合は二対一組が大事で、根底に陰陽思想が流れているようです。仏教においても本尊の左右に配する脇侍は、太陽と月の化身の日光菩薩と月光菩薩、慈悲と叡智を顕現した普賢菩薩・文殊菩薩であるように、一組で対をなすものとなっています。
また住まいの結界は、鳥居の内側に狛犬が安置されているように、玄関の「内側」に左右一対で盛り塩を置くことが望ましいといわれます。
盛り塩を置く場所は、結界を張る意味で玄関になります。「玄関」は仏教用語で「境界」を意味し、玄は玄妙(悟りの境地)、そこに至るための関門です。
商家の盛り塩のように招客の意味なら、中国の後宮での羊の足止めに由来するので、数は一つ、出入り口の「外」に置きます。
穢れ祓いの結界のための盛り塩なら二つ置きます。神道に置ける結界、神域の境界は2本の柱の鳥居や二対の狛犬が守る中に存在しているように、結界を張る場合は二対一組が大事で、根底に陰陽思想が流れているようです。仏教においても本尊の左右に配する脇侍は、太陽と月の化身の日光菩薩と月光菩薩、慈悲と叡智を顕現した普賢菩薩・文殊菩薩であるように、一組で対をなすものとなっています。
また住まいの結界は、鳥居の内側に狛犬が安置されているように、玄関の「内側」に左右一対で盛り塩を置くことが望ましいといわれます。

盛り塩を置く場所は、結界を張る意味で玄関になります。「玄関」は仏教用語で「境界」を意味し、玄は玄妙(悟りの境地)、そこに至るための関門です。
商家の盛り塩のように招客の意味なら、中国の後宮での羊の足止めに由来するので、数は一つ、出入り口の「外」に置きます。
穢れ祓いの結界のための盛り塩なら二つ置きます。神道に置ける結界、神域の境界は2本の柱の鳥居や二対の狛犬が守る中に存在しているように、結界を張る場合は二対一組が大事で、根底に陰陽思想が流れているようです。仏教においても本尊の左右に配する脇侍は、太陽と月の化身の日光菩薩と月光菩薩、慈悲と叡智を顕現した普賢菩薩・文殊菩薩であるように、一組で対をなすものとなっています。
また住まいの結界は、鳥居の内側に狛犬が安置されているように、玄関の「内側」に左右一対で盛り塩を置くことが望ましいといわれます。

【盛り塩の交換時期】

穢れ祓いに使用する塩は、穢れを祓うものでしょうか、吸い込むのでしょうか。中国では瓢箪などに吸い込む物語もありますが、日本では追儺(ついな)に見られるように、塩による穢れ祓いも「祓う」意味合いが濃いようです。
交換の時期は「穢れを祓う効力が落ちた時」ですが、目で見て分かるものでもなく、神道で塩・水・米の神饌は毎朝、榊は1日と15日の月2回が基本、これを模すなら毎朝となりますが、なかなか大変です。
そこで、葬儀や法事から帰った時に使う「清め塩」を一つの指標に考えてみます。
清め塩の実際の量は約1グラムなので、毎日1人1グラム穢れ祓いに使うと換算し、7グラムの盛り塩なら一週間で交換、15グラムなら半月、家族が2人ならその倍が目安になります。
穢れ祓いに使用する塩は、穢れを祓うものでしょうか、吸い込むのでしょうか。中国では瓢箪などに吸い込む物語もありますが、日本では追儺(ついな)に見られるように、塩による穢れ祓いも「祓う」意味合いが濃いようです。
交換の時期は「穢れを祓う効力が落ちた時」ですが、目で見て分かるものでもなく、神道で塩・水・米の神饌は毎朝、榊は1日と15日の月2回が基本、これを模すなら毎朝となりますが、なかなか大変です。
そこで、葬儀や法事から帰った時に使う「清め塩」を一つの指標に考えてみます。
清め塩の実際の量は約1グラムなので、毎日1人1グラム穢れ祓いに使うと換算し、7グラムの盛り塩なら一週間で交換、15グラムなら半月、家族が2人ならその倍が目安になります。

穢れ祓いに使用する塩は、穢れを祓うものでしょうか、吸い込むのでしょうか。中国では瓢箪などに吸い込む物語もありますが、日本では追儺(ついな)に見られるように、塩による穢れ祓いも「祓う」意味合いが濃いようです。
交換の時期は「穢れを祓う効力が落ちた時」ですが、目で見て分かるものでもなく、神道で塩・水・米の神饌は毎朝、榊は1日と15日の月2回が基本、これを模すなら毎朝となりますが、なかなか大変です。
そこで、葬儀や法事から帰った時に使う「清め塩」を一つの指標に考えてみます。
清め塩の実際の量は約1グラムなので、毎日1人1グラム穢れ祓いに使うと換算し、7グラムの盛り塩なら一週間で交換、15グラムなら半月、家族が2人ならその倍が目安になります。

【処分方法】

神饌は、神に捧げた供物に神の御霊がこもると考えるので、料理に使って有り難く戴きますが、結界を張る穢れ祓いの盛り塩は、食べるのは何となく憚られます。
処分するのに、土中に埋めるのは埋葬と同じ発想で大地への回帰を意味します。五行で土は全ての基で始まりであり、木は大地より生え、金は土中に眠り、湧き水は地中より出、火は土上で燃え盛る、この思想が埋葬の根本で、土より出たものは土に帰るわけですが、庭に塩を埋めれば塩害が生じます。川や海に流すのは精霊流しや船送りに見られる行為で、使い終わった塩を彼岸へ送り、此岸に生きる自分との接点を断ちますが、これも川では塩害が生じ、海が近くにない場合は困ったことになります。
送り火やお焚上げのように火で燃やす方法もありますが、条例で制限されています。
最も手軽なのが生ごみと一緒に捨てる方法です。抵抗感があっても、生ごみは生き物の死穢で、その穢れを塩で清めて焚き上げると考えれば違和感はなくなります。
神饌は、神に捧げた供物に神の御霊がこもると考えるので、料理に使って有り難く戴きますが、結界を張る穢れ祓いの盛り塩は、食べるのは何となく憚られます。
処分するのに、土中に埋めるのは埋葬と同じ発想で大地への回帰を意味します。五行で土は全ての基で始まりであり、木は大地より生え、金は土中に眠り、湧き水は地中より出、火は土上で燃え盛る、この思想が埋葬の根本で、土より出たものは土に帰るわけですが、庭に塩を埋めれば塩害が生じます。川や海に流すのは精霊流しや船送りに見られる行為で、使い終わった塩を彼岸へ送り、此岸に生きる自分との接点を断ちますが、これも川では塩害が生じ、海が近くにない場合は困ったことになります。
送り火やお焚上げのように火で燃やす方法もありますが、条例で制限されています。
最も手軽なのが生ごみと一緒に捨てる方法です。抵抗感があっても、生ごみは生き物の死穢で、その穢れを塩で清めて焚き上げると考えれば違和感はなくなります。

神饌は、神に捧げた供物に神の御霊がこもると考えるので、料理に使って有り難く戴きますが、結界を張る穢れ祓いの盛り塩は、食べるのは何となく憚られます。
処分するのに、土中に埋めるのは埋葬と同じ発想で大地への回帰を意味します。五行で土は全ての基で始まりであり、木は大地より生え、金は土中に眠り、湧き水は地中より出、火は土上で燃え盛る、この思想が埋葬の根本で、土より出たものは土に帰るわけですが、庭に塩を埋めれば塩害が生じます。川や海に流すのは精霊流しや船送りに見られる行為で、使い終わった塩を彼岸へ送り、此岸に生きる自分との接点を断ちますが、これも川では塩害が生じ、海が近くにない場合は困ったことになります。
送り火やお焚上げのように火で燃やす方法もありますが、条例で制限されています。
最も手軽なのが生ごみと一緒に捨てる方法です。抵抗感があっても、生ごみは生き物の死穢で、その穢れを塩で清めて焚き上げると考えれば違和感はなくなります。

【現代における穢れ】

「穢れ」の概念は時と共にどんどん広がり、自分に降りかかる忌まわしいもの、不運を呼びこむ障り、他人の怨嗟、妬み、嫉み、身にまとわりついて離れない悪感情といった一種のストレスで、玄関に盛られた塩の間を通ることで、一日の憂いをさっぱり落として心穏やかに暮らせるなら、小皿に盛った白い塊は大いに意味があるといえるでしょう。
「穢れ」の概念は時と共にどんどん広がり、自分に降りかかる忌まわしいもの、不運を呼びこむ障り、他人の怨嗟、妬み、嫉み、身にまとわりついて離れない悪感情といった一種のストレスで、玄関に盛られた塩の間を通ることで、一日の憂いをさっぱり落として心穏やかに暮らせるなら、小皿に盛った白い塊は大いに意味があるといえるでしょう。

「穢れ」の概念は時と共にどんどん広がり、自分に降りかかる忌まわしいもの、不運を呼びこむ障り、他人の怨嗟、妬み、嫉み、身にまとわりついて離れない悪感情といった一種のストレスで、玄関に盛られた塩の間を通ることで、一日の憂いをさっぱり落として心穏やかに暮らせるなら、小皿に盛った白い塊は大いに意味があるといえるでしょう。

【塩の神事】

宮城県の御釜(おかま)神社の藻塩(もしお)焼神事は、ホンダワラという海藻を採集して神釜の上に広げその上から海水を注ぎ入れ塩を作るもので、これは古代の製塩法で、出来上がった塩はしゃもじで掬いザルに盛られて社務所に保管、小分けに袋詰めされ集まった人々に配られる。この神事においては、塩を作る過程が神聖な儀式であり、塩そのものに神饌としての意味合いは薄いようです。
同じ製塩神事でも伊勢神宮の御塩殿祭は、出来上がった塩を木型に入れ、三角錐の形をした御塩焼固を作り神饌として奉納するもので毎年3月と10月に行われます。これも塩田から塩釜で製塩する神事で、神官が正装して古式にのっとり手ずから塩を作っていきます。(三角錐の形状についての意味や由来は不明)

宮城県の御釜(おかま)神社の藻塩(もしお)焼神事は、ホンダワラという海藻を採集して神釜の上に広げその上から海水を注ぎ入れ塩を作るもので、これは古代の製塩法で、出来上がった塩はしゃもじで掬いザルに盛られて社務所に保管、小分けに袋詰めされ集まった人々に配られる。この神事においては、塩を作る過程が神聖な儀式であり、塩そのものに神饌としての意味合いは薄いようです。
同じ製塩神事でも伊勢神宮の御塩殿祭は、出来上がった塩を木型に入れ、三角錐の形をした御塩焼固を作り神饌として奉納するもので毎年3月と10月に行われます。これも塩田から塩釜で製塩する神事で、神官が正装して古式にのっとり手ずから塩を作っていきます。(三角錐の形状についての意味や由来は不明)

宮城県の御釜(おかま)神社の藻塩(もしお)焼神事は、ホンダワラという海藻を採集して神釜の上に広げその上から海水を注ぎ入れ塩を作るもので、これは古代の製塩法で、出来上がった塩はしゃもじで掬いザルに盛られて社務所に保管、小分けに袋詰めされ集まった人々に配られる。この神事においては、塩を作る過程が神聖な儀式であり、塩そのものに神饌としての意味合いは薄いようです。
同じ製塩神事でも伊勢神宮の御塩殿祭は、出来上がった塩を木型に入れ、三角錐の形をした御塩焼固を作り神饌として奉納するもので毎年3月と10月に行われます。これも塩田から塩釜で製塩する神事で、神官が正装して古式にのっとり手ずから塩を作っていきます。(三角錐の形状についての意味や由来は不明)

【御釜(おかま)神社】

鹽竈(しほがま)神社の末社であり鹽竈神社と同じ鹽土翁神を御祭神としてお祀りしています。塩竈の地名の由来は、こちらの御釜神社に伝わる神話によるものです。
現在の御釜神社境内地周辺は、古来「甫出の浜」と呼ばれた浜辺で、御祭神により伝えられた製塩が行われた所と伝わります。芭蕉は塩竈に訪れた際、この御釜神社にも訪れ、神釜を拝したことが奥の細道に記されています。
鹽竈(しほがま)神社の末社であり鹽竈神社と同じ鹽土翁神を御祭神としてお祀りしています。塩竈の地名の由来は、こちらの御釜神社に伝わる神話によるものです。
現在の御釜神社境内地周辺は、古来「甫出の浜」と呼ばれた浜辺で、御祭神により伝えられた製塩が行われた所と伝わります。芭蕉は塩竈に訪れた際、この御釜神社にも訪れ、神釜を拝したことが奥の細道に記されています。

鹽竈(しほがま)神社の末社であり鹽竈神社と同じ鹽土翁神を御祭神としてお祀りしています。塩竈の地名の由来は、こちらの御釜神社に伝わる神話によるものです。
現在の御釜神社境内地周辺は、古来「甫出の浜」と呼ばれた浜辺で、御祭神により伝えられた製塩が行われた所と伝わります。芭蕉は塩竈に訪れた際、この御釜神社にも訪れ、神釜を拝したことが奥の細道に記されています。

【四口の神釜】

御釜神社には神釜と呼ばれる四口の鉄製の釜が祀られています。この四口の釜は「日本三奇」の一つに数えられ、釜の中の水は溢れることも枯れることも無いとされ、江戸時代には変事ある時その前触れとして御釜の水が変わると言われました。

宮城県無形民俗文化財『特殊神事 藻塩焼神事』
7月4日から6日に渡り古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われます。
この神事では海藻(ホンダワラ)を用いて濃度の高い塩水(鹹水)を作り、これを煮詰めて塩を作る一連の工程が儀式として再現されます。古代の製塩方法を今に伝える神事として宮城県の無形民俗文化財に指定されています。

藻刈神事(7月4日)
神職が神事船に乗り七ヶ浜町花渕沖に向かい、祓いを修したのちホンダワラと呼ばれる海藻を刈り取ります。

水替神事(7月5日)
神職が神事船に乗り松島湾釜ヶ淵に向かい、満潮時の海水を汲み、神釜の水を入れ替えます。

藻塩焼神事(7月6日)
御釜神社境内の竈に鉄製の平釜を乗せ、その上に竹棚を設けホンダワラを広げ海水を注ぎかけ、濃度の高い海水を作ります。これを火打ち石で熾した忌火で煮詰め、藻塩を焼きあげます。出来上がった藻塩は直後の御釜神社の例祭に供えられ、7月10日の鹽竈神社例祭にも供えられます。
御釜神社には神釜と呼ばれる四口の鉄製の釜が祀られています。この四口の釜は「日本三奇」の一つに数えられ、釜の中の水は溢れることも枯れることも無いとされ、江戸時代には変事ある時その前触れとして御釜の水が変わると言われました。

宮城県無形民俗文化財『特殊神事 藻塩焼神事』
7月4日から6日に渡り古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われます。
この神事では海藻(ホンダワラ)を用いて濃度の高い塩水(鹹水)を作り、これを煮詰めて塩を作る一連の工程が儀式として再現されます。古代の製塩方法を今に伝える神事として宮城県の無形民俗文化財に指定されています。

藻刈神事(7月4日)
神職が神事船に乗り七ヶ浜町花渕沖に向かい、祓いを修したのちホンダワラと呼ばれる海藻を刈り取ります。

水替神事(7月5日)
神職が神事船に乗り松島湾釜ヶ淵に向かい、満潮時の海水を汲み、神釜の水を入れ替えます。

藻塩焼神事(7月6日)
御釜神社境内の竈に鉄製の平釜を乗せ、その上に竹棚を設けホンダワラを広げ海水を注ぎかけ、濃度の高い海水を作ります。これを火打ち石で熾した忌火で煮詰め、藻塩を焼きあげます。出来上がった藻塩は直後の御釜神社の例祭に供えられ、7月10日の鹽竈神社例祭にも供えられます。

御釜神社には神釜と呼ばれる四口の鉄製の釜が祀られています。この四口の釜は「日本三奇」の一つに数えられ、釜の中の水は溢れることも枯れることも無いとされ、江戸時代には変事ある時その前触れとして御釜の水が変わると言われました。

宮城県無形民俗文化財『特殊神事 藻塩焼神事』
7月4日から6日に渡り古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われます。
この神事では海藻(ホンダワラ)を用いて濃度の高い塩水(鹹水)を作り、これを煮詰めて塩を作る一連の工程が儀式として再現されます。古代の製塩方法を今に伝える神事として宮城県の無形民俗文化財に指定されています。

藻刈神事(7月4日)
神職が神事船に乗り七ヶ浜町花渕沖に向かい、祓いを修したのちホンダワラと呼ばれる海藻を刈り取ります。

水替神事(7月5日)
神職が神事船に乗り松島湾釜ヶ淵に向かい、満潮時の海水を汲み、神釜の水を入れ替えます。

藻塩焼神事(7月6日)
御釜神社境内の竈に鉄製の平釜を乗せ、その上に竹棚を設けホンダワラを広げ海水を注ぎかけ、濃度の高い海水を作ります。これを火打ち石で熾した忌火で煮詰め、藻塩を焼きあげます。出来上がった藻塩は直後の御釜神社の例祭に供えられ、7月10日の鹽竈神社例祭にも供えられます。

【志ほがま】

宮城県塩竈は「見渡せば霞のうちもかすみなり 煙たなびく塩釜の浦」とうたわれた古代陸奥の塩どころで、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神(しおつちのおじのおおかみ)がこの地に留まり現地の人々に米粉に塩を混ぜて押し物を作り糧食とする方法を教えた伝承に由来するお菓子です。

炒ったもち米粉に白砂糖と少量の塩を加え,水あめ液で湿りを与え,押枠に入れ固め、風味づけにユカリを散らし、藻塩焼きによって出来た塩にホンダワラ(海藻)が混入している様子を表した軟落雁ですが、明治以降、海藻粉末のアマモの代りに紫蘇の葉粉末を散らすようになり、香りがよくなりました。易に使う算木のように切れ目を入れるところから,かつては算木菓子,算木餅とも呼ばれました。

鹽竈神社の門前町・宮町にある丹六園は、江戸時代中期から「志ほかま(しおがま)」を長年作り続けている老舗で、くっきり浮き出た塩竃桜の模様(塩竃神社の御神紋)は、ため息が出てしまうほど美しいものです。
出来上がった生地を木型に詰めて押し固め一晩おいて完成しますが、難しいのは水分調整。混ぜる度合い、型に詰める力の入れ方、タイミングによって思うように出来上がらないこともあります。水分をほとんど感じない干菓子ではなく、丹六園の志ほかまは日持ちは2週間ですが、つくりたては生菓子のような感覚で口どけが良く、日を追って水分が抜けて10日過ぎた頃には一般的しおがまの食感になります。
丹六園では「志ほがま」の他にもう一つ、昭和60年頃からミネラルの多い黒糖とクルミを使った押しもの「長寿楽」も作っています。こちらは算木菓子の型で仕上げています。
宮城県塩竈は「見渡せば霞のうちもかすみなり 煙たなびく塩釜の浦」とうたわれた古代陸奥の塩どころで、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神(しおつちのおじのおおかみ)がこの地に留まり現地の人々に米粉に塩を混ぜて押し物を作り糧食とする方法を教えた伝承に由来するお菓子です。

炒ったもち米粉に白砂糖と少量の塩を加え,水あめ液で湿りを与え,押枠に入れ固め、風味づけにユカリを散らし、藻塩焼きによって出来た塩にホンダワラ(海藻)が混入している様子を表した軟落雁ですが、明治以降、海藻粉末のアマモの代りに紫蘇の葉粉末を散らすようになり、香りがよくなりました。易に使う算木のように切れ目を入れるところから,かつては算木菓子,算木餅とも呼ばれました。

鹽竈神社の門前町・宮町にある丹六園は、江戸時代中期から「志ほかま(しおがま)」を長年作り続けている老舗で、くっきり浮き出た塩竃桜の模様(塩竃神社の御神紋)は、ため息が出てしまうほど美しいものです。
出来上がった生地を木型に詰めて押し固め一晩おいて完成しますが、難しいのは水分調整。混ぜる度合い、型に詰める力の入れ方、タイミングによって思うように出来上がらないこともあります。水分をほとんど感じない干菓子ではなく、丹六園の志ほかまは日持ちは2週間ですが、つくりたては生菓子のような感覚で口どけが良く、日を追って水分が抜けて10日過ぎた頃には一般的しおがまの食感になります。
丹六園では「志ほがま」の他にもう一つ、昭和60年頃からミネラルの多い黒糖とクルミを使った押しもの「長寿楽」も作っています。こちらは算木菓子の型で仕上げています。

宮城県塩竈は「見渡せば霞のうちもかすみなり 煙たなびく塩釜の浦」とうたわれた古代陸奥の塩どころで、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神(しおつちのおじのおおかみ)がこの地に留まり現地の人々に米粉に塩を混ぜて押し物を作り糧食とする方法を教えた伝承に由来するお菓子です。

炒ったもち米粉に白砂糖と少量の塩を加え,水あめ液で湿りを与え,押枠に入れ固め、風味づけにユカリを散らし、藻塩焼きによって出来た塩にホンダワラ(海藻)が混入している様子を表した軟落雁ですが、明治以降、海藻粉末のアマモの代りに紫蘇の葉粉末を散らすようになり、香りがよくなりました。易に使う算木のように切れ目を入れるところから,かつては算木菓子,算木餅とも呼ばれました。

鹽竈神社の門前町・宮町にある丹六園は、江戸時代中期から「志ほかま(しおがま)」を長年作り続けている老舗で、くっきり浮き出た塩竃桜の模様(塩竃神社の御神紋)は、ため息が出てしまうほど美しいものです。
出来上がった生地を木型に詰めて押し固め一晩おいて完成しますが、難しいのは水分調整。混ぜる度合い、型に詰める力の入れ方、タイミングによって思うように出来上がらないこともあります。水分をほとんど感じない干菓子ではなく、丹六園の志ほかまは日持ちは2週間ですが、つくりたては生菓子のような感覚で口どけが良く、日を追って水分が抜けて10日過ぎた頃には一般的しおがまの食感になります。
丹六園では「志ほがま」の他にもう一つ、昭和60年頃からミネラルの多い黒糖とクルミを使った押しもの「長寿楽」も作っています。こちらは算木菓子の型で仕上げています。

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