縁結びの地・奥出雲で採れた天然水「仁多水(じんおおすい)」の公式ネットショップ

奥出雲の水「仁多水」

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水は全て繋ぐ

2019年6月

ホタルの発生は6月初旬~6月下旬頃。ホタルが一番良く飛ぶ時間帯は、雨が降っておらず、風のない湿度と気温が高い、夜8時過ぎ頃から9時半頃までと言われます。
豊かな自然の山や里山の支流がある地域では、ホタルが舞う神秘的な光景を目にすることができます。沢山のホタルの乱舞は幻想的です。

感動からなのでしょうか、それとも少し怖いからなのでしょうか。蛍の乱舞を見ると、泣き出す子がいるようです。
籠りがちな雨の日こそ、紫陽花やホタル、梅雨の時期ならではの名所へ繰り出してみて下さい。
ホタルの発生は6月初旬~6月下旬頃。ホタルが一番良く飛ぶ時間帯は、雨が降っておらず、風のない湿度と気温が高い、夜8時過ぎ頃から9時半頃までと言われます。
豊かな自然の山や里山の支流がある地域では、ホタルが舞う神秘的な光景を目にすることができます。沢山のホタルの乱舞は幻想的です。

感動からなのでしょうか、それとも少し怖いからなのでしょうか。蛍の乱舞を見ると、泣き出す子がいるようです。
籠りがちな雨の日こそ、紫陽花やホタル、梅雨の時期ならではの名所へ繰り出してみて下さい。

ホタルの発生は6月初旬~6月下旬頃。ホタルが一番良く飛ぶ時間帯は、雨が降っておらず、風のない湿度と気温が高い、夜8時過ぎ頃から9時半頃までと言われます。
豊かな自然の山や里山の支流がある地域では、ホタルが舞う神秘的な光景を目にすることができます。沢山のホタルの乱舞は幻想的です。

感動からなのでしょうか、それとも少し怖いからなのでしょうか。蛍の乱舞を見ると、泣き出す子がいるようです。
籠りがちな雨の日こそ、紫陽花やホタル、梅雨の時期ならではの名所へ繰り出してみて下さい。

蛍の生物発光の源はルシフェリン (英: luciferin)、ルシフェラーゼによって酸化され発光する物質の総称で発光素とも言い、名前は何故か、堕天使を意味するルシファーに由来します。
85万匹のオワンクラゲを採取し、ノーベル化学賞を受賞された下村脩先生が、長崎県諫早市で閃光を見たのが16歳の夏。うず高く積まれた遺体を目にして人生観が一変したと、後に述懐されています。
残ったものは知的な探求心だけで、最初の研究が「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」。プリンストン大学のグループも20年以上前から解決しようとしていた極めて難しい問題を、名古屋大学の平田教授の研究室で成功したのが27歳。その後、プリンストン大学に招聘され、オワンクラゲの発光についての研究をしていきます。
蛍の生物発光の源はルシフェリン (英: luciferin)、ルシフェラーゼによって酸化され発光する物質の総称で発光素とも言い、名前は何故か、堕天使を意味するルシファーに由来します。
85万匹のオワンクラゲを採取し、ノーベル化学賞を受賞された下村脩先生が、長崎県諫早市で閃光を見たのが16歳の夏。うず高く積まれた遺体を目にして人生観が一変したと、後に述懐されています。
残ったものは知的な探求心だけで、最初の研究が「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」。プリンストン大学のグループも20年以上前から解決しようとしていた極めて難しい問題を、名古屋大学の平田教授の研究室で成功したのが27歳。その後、プリンストン大学に招聘され、オワンクラゲの発光についての研究をしていきます。

蛍の生物発光の源はルシフェリン (英: luciferin)、ルシフェラーゼによって酸化され発光する物質の総称で発光素とも言い、名前は何故か、堕天使を意味するルシファーに由来します。
85万匹のオワンクラゲを採取し、ノーベル化学賞を受賞された下村脩先生が、長崎県諫早市で閃光を見たのが16歳の夏。うず高く積まれた遺体を目にして人生観が一変したと、後に述懐されています。
残ったものは知的な探求心だけで、最初の研究が「ウミホタルのルシフェリンの精製と結晶化」。プリンストン大学のグループも20年以上前から解決しようとしていた極めて難しい問題を、名古屋大学の平田教授の研究室で成功したのが27歳。その後、プリンストン大学に招聘され、オワンクラゲの発光についての研究をしていきます。

オワンクラゲの発光も蛍に代表されるルシフェリンによると考えられていた為、多くの研究者が発光物質の取り出しに失敗する中、下村先生は、従来の考えを払拭し、発光たんぱく質を見出します。

「ノーベル賞に繋がる青い光は、流し台で輝いていた。その前日までの仮説は崩れ、人間関係も悪化、暗礁に乗り上げ、誰とも口をきかず、一人、小舟の上で過ごしていた」

生物発光分野における孤高の研究者は、原爆の光から真の光に導かれるようにして、科学の進歩に大きな功績を残され、2018年故郷長崎で「光」に貫かれたご生涯を静かに終えられました。
オワンクラゲの発光も蛍に代表されるルシフェリンによると考えられていた為、多くの研究者が発光物質の取り出しに失敗する中、下村先生は、従来の考えを払拭し、発光たんぱく質を見出します。

「ノーベル賞に繋がる青い光は、流し台で輝いていた。その前日までの仮説は崩れ、人間関係も悪化、暗礁に乗り上げ、誰とも口をきかず、一人、小舟の上で過ごしていた」

生物発光分野における孤高の研究者は、原爆の光から真の光に導かれるようにして、科学の進歩に大きな功績を残され、2018年故郷長崎で「光」に貫かれたご生涯を静かに終えられました。

オワンクラゲの発光も蛍に代表されるルシフェリンによると考えられていた為、多くの研究者が発光物質の取り出しに失敗する中、下村先生は、従来の考えを払拭し、発光たんぱく質を見出します。

「ノーベル賞に繋がる青い光は、流し台で輝いていた。その前日までの仮説は崩れ、人間関係も悪化、暗礁に乗り上げ、誰とも口をきかず、一人、小舟の上で過ごしていた」

生物発光分野における孤高の研究者は、原爆の光から真の光に導かれるようにして、科学の進歩に大きな功績を残され、2018年故郷長崎で「光」に貫かれたご生涯を静かに終えられました。

【蛍の光】

「蛍の光」は日本の唱歌ですが、原曲はスコットランド民謡・非公式な準国歌「Auld Lang Syne」(英訳は「old long since」)旧友と再会し、思い出話をしながら酒を酌み交わす
といった内容で、年始、披露宴、誕生日などで歌われます。
作詞は稲垣千頴さんによるもので、冒頭の歌詞「蛍の光 窓の雪」は、中国の故事「蛍雪の功」が由来です。「東晋の時代の車胤は家が貧乏で、灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。この2人は、重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世した」と故事では、一途に学問に励む事を称える内容になっています。
「蛍の光」は日本の唱歌ですが、原曲はスコットランド民謡・非公式な準国歌「Auld Lang Syne」(英訳は「old long since」)旧友と再会し、思い出話をしながら酒を酌み交わす
といった内容で、年始、披露宴、誕生日などで歌われます。
作詞は稲垣千頴さんによるもので、冒頭の歌詞「蛍の光 窓の雪」は、中国の故事「蛍雪の功」が由来です。「東晋の時代の車胤は家が貧乏で、灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。この2人は、重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世した」と故事では、一途に学問に励む事を称える内容になっています。

「蛍の光」は日本の唱歌ですが、原曲はスコットランド民謡・非公式な準国歌「Auld Lang Syne」(英訳は「old long since」)旧友と再会し、思い出話をしながら酒を酌み交わす
といった内容で、年始、披露宴、誕生日などで歌われます。
作詞は稲垣千頴さんによるもので、冒頭の歌詞「蛍の光 窓の雪」は、中国の故事「蛍雪の功」が由来です。「東晋の時代の車胤は家が貧乏で、灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪に反射する月の光で勉強していた。この2人は、重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世した」と故事では、一途に学問に励む事を称える内容になっています。

【紫陽花】

入り組んだ露地や石の階段、お寺の片隅に咲いている紫陽花は風情があり、雨が似合います。あまり足を運ぶことのない道を辿って、この時期、お寺を訪れてみると、思わぬ発見があるかもしれません。
修行を積まれたご僧侶の説話は面白く、腑に落ちるように真理を伝えて下さいますし、そこで出会ったお寺が菩提寺になるような、そんなご縁が生まれるかもしれません。

日本全国、北海道から九州まで「あじさい寺」が点在しています。「あじさい寺」は境内に紫陽花を多く植えているお寺のことで、どこも梅雨時は混み合いますが、一見の価値あり。花菖蒲の開花時期と重なる為、お寺によっては菖蒲も同時に鑑賞することができます。
アジサイ祭を開催するお寺もあり、茶道のお点前や寺の古い書物の披露など、お寺と文化とお花を一度に楽しむことができる、絶好の機会になっています。

何故、お寺に紫陽花が沢山植わっているのでしょう。一説には、アジサイの咲く梅雨時は細菌が発生しやすく、医療の発達していない時代、多くの病人が亡くなるような食中毒や流行病があった地区の寺に多く植えられたといわれます。お寺によっては、死人に手向ける花とも呼んだようです。
その後、アジサイは挿し木などで容易に栽培できること、書画でもその美しさが目を引くようになったことから、梅雨時に彩りを添える為、日本全国の古寺で植えられるようになりました。
入り組んだ露地や石の階段、お寺の片隅に咲いている紫陽花は風情があり、雨が似合います。あまり足を運ぶことのない道を辿って、この時期、お寺を訪れてみると、思わぬ発見があるかもしれません。
修行を積まれたご僧侶の説話は面白く、腑に落ちるように真理を伝えて下さいますし、そこで出会ったお寺が菩提寺になるような、そんなご縁が生まれるかもしれません。

日本全国、北海道から九州まで「あじさい寺」が点在しています。「あじさい寺」は境内に紫陽花を多く植えているお寺のことで、どこも梅雨時は混み合いますが、一見の価値あり。花菖蒲の開花時期と重なる為、お寺によっては菖蒲も同時に鑑賞することができます。
アジサイ祭を開催するお寺もあり、茶道のお点前や寺の古い書物の披露など、お寺と文化とお花を一度に楽しむことができる、絶好の機会になっています。

何故、お寺に紫陽花が沢山植わっているのでしょう。一説には、アジサイの咲く梅雨時は細菌が発生しやすく、医療の発達していない時代、多くの病人が亡くなるような食中毒や流行病があった地区の寺に多く植えられたといわれます。お寺によっては、死人に手向ける花とも呼んだようです。
その後、アジサイは挿し木などで容易に栽培できること、書画でもその美しさが目を引くようになったことから、梅雨時に彩りを添える為、日本全国の古寺で植えられるようになりました。

入り組んだ露地や石の階段、お寺の片隅に咲いている紫陽花は風情があり、雨が似合います。あまり足を運ぶことのない道を辿って、この時期、お寺を訪れてみると、思わぬ発見があるかもしれません。
修行を積まれたご僧侶の説話は面白く、腑に落ちるように真理を伝えて下さいますし、そこで出会ったお寺が菩提寺になるような、そんなご縁が生まれるかもしれません。

日本全国、北海道から九州まで「あじさい寺」が点在しています。「あじさい寺」は境内に紫陽花を多く植えているお寺のことで、どこも梅雨時は混み合いますが、一見の価値あり。花菖蒲の開花時期と重なる為、お寺によっては菖蒲も同時に鑑賞することができます。
アジサイ祭を開催するお寺もあり、茶道のお点前や寺の古い書物の披露など、お寺と文化とお花を一度に楽しむことができる、絶好の機会になっています。

何故、お寺に紫陽花が沢山植わっているのでしょう。一説には、アジサイの咲く梅雨時は細菌が発生しやすく、医療の発達していない時代、多くの病人が亡くなるような食中毒や流行病があった地区の寺に多く植えられたといわれます。お寺によっては、死人に手向ける花とも呼んだようです。
その後、アジサイは挿し木などで容易に栽培できること、書画でもその美しさが目を引くようになったことから、梅雨時に彩りを添える為、日本全国の古寺で植えられるようになりました。

箱根では毎年「夜のあじさい号」が臨時運転されます。箱根登山鉄道の沿線に植栽されているあじさいは、6月中旬から徐々に見頃を迎えるものの、箱根湯本から強羅間は標高差が400メートル以上あり、紫陽花の見頃も標高差と共に移り変わるため、鑑賞期間が長いのが特徴です。通常の観賞期は梅雨の6月ですが、標高が高い箱根の方では7月に見頃となります。この花の見頃に合わせ、箱根登山鉄道ではライトアップされた満開の紫陽花を、幻想的な雰囲気で楽しめる、そんな列車が走ります。
箱根では毎年「夜のあじさい号」が臨時運転されます。箱根登山鉄道の沿線に植栽されているあじさいは、6月中旬から徐々に見頃を迎えるものの、箱根湯本から強羅間は標高差が400メートル以上あり、紫陽花の見頃も標高差と共に移り変わるため、鑑賞期間が長いのが特徴です。通常の観賞期は梅雨の6月ですが、標高が高い箱根の方では7月に見頃となります。この花の見頃に合わせ、箱根登山鉄道ではライトアップされた満開の紫陽花を、幻想的な雰囲気で楽しめる、そんな列車が走ります。

箱根では毎年「夜のあじさい号」が臨時運転されます。箱根登山鉄道の沿線に植栽されているあじさいは、6月中旬から徐々に見頃を迎えるものの、箱根湯本から強羅間は標高差が400メートル以上あり、紫陽花の見頃も標高差と共に移り変わるため、鑑賞期間が長いのが特徴です。通常の観賞期は梅雨の6月ですが、標高が高い箱根の方では7月に見頃となります。この花の見頃に合わせ、箱根登山鉄道ではライトアップされた満開の紫陽花を、幻想的な雰囲気で楽しめる、そんな列車が走ります。

【嘉祥菓子】

6月16日は、「嘉祥の日」です。疫病が蔓延していた平安時代の中期、白い亀が献上されたのを機に、元号が承和(しょうわ)から嘉祥(かしょう)に改められ、仁明天皇が御神託に基づき、嘉祥元年848年(辰年 干支は戊辰)の6月16日、16種の神供(餅、糖菓子、水菓子)を献じ、疫病退散を祈願したのが始まりと言われています。

4年後に元号は仁壽に変わりますが、「めでたいしるし」である嘉祥神事は、宮中と幕府と庶民、また時代毎に内容は変容しつつも、脈々と受け継がれていきます。

鎌倉時代には、6月16日に通貨16枚でお供えのお菓子を捧げることが、吉例として定着しました。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。
武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」16 枚で買った食べ物を贈りました。(このことから嘉祥は嘉定とも書くようになります)銭の「嘉(か)」と「通(つう)」の音が、「勝(かつ)」に通じることから、武家社会でことのほか、尊ばれていったようです。
江戸幕府は、この日「嘉祥頂戴」と称し、江戸城大広間500畳に菓子を並べ、御目見得以上の諸士に一人一個ずつ取らせたといわれています。白木の片木の上に青杉の葉を敷いた上に積んだ饅頭、羊羹、うづら餅、きんとん、白団子、干麩、のし餅、お菓子の数は2万数千という記録が残ります。

宮中では天皇から1升6合の米を賜った臣下が、その米を虎屋か二口屋の菓子に換え、
この夜、宮中の16歳の女子は、振袖を切って詰袖にし(嘉祥縫・16歳の袖止め)嘉祥菓子を盛った土器に孔を開け、その穴から月を見る月見を成人儀礼としたようです。

また、福島県会津若松市では、6月16日の未明に採って梅干を作り、これを旅立ちに食えば災難を逃れると言う伝えがあり、これを嘉祥の梅というようです。

民間でも、16文で餅やお菓子16個を買って無言のまま食べると福を招く「嘉祥喰」という風習が生まれますが、嘉定通宝の流通量が少なかったので、代わりに米1升6合を持って餅・菓子を求めました。

いずれも除災招福に霊験あらたかとして続いたこの風習は、明治以降、廃れたものの、昭和54年(1979年)全国和菓子協会が、6月16日の意義を鑑み、「和菓子の日」を制定します。

徳川将軍家の産土神である日枝神社では、嘉祥の祝儀の6月16日が山王祭期間中に当たることから、毎年「嘉祥祭」を行い、当日、「菓子司」が神前にて「伝統の和菓子(煉切)」を作り神前に献じ、万民の「疫難退散」と「健康招福」を祈ります。

また、御所御用達だった虎屋は、古い記録を元に、宮中にお納めした嘉祥菓子を再現。
一年に一度、特別に土師(かわらけ)という白い陶器の上に外郎や松風等、個性豊かな7種類の和菓子を盛った「嘉祥菓子7ヶ盛」を予約販売しています。

本来、菓子の起こりは、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わし求めさせた不老不死の霊薬「ときじくのかくのみ・非時香菓」(時を定めずいつも黄金に輝く木の実)に由来するので、嘉祥という元号の始まりに出現した白亀も瑞祥の兆しで一致しますから、古来より伝わってきた吉祥菓子を、招福を願って、一度お求めになっては如何でしょう。

※「嘉祥」は1、6、16、そして7という数に拘る神事です。本来「16」が縁起の良い数と重んじられましたが、時代と共に16ではなく、1と6を足した「七嘉祥」と変わっていきます。

※写真は、大正期の「御菓子見本帳」にあった『嘉祥菓子』(左)と『嘉祥菓子』の照合図(右)
6月16日は、「嘉祥の日」です。疫病が蔓延していた平安時代の中期、白い亀が献上されたのを機に、元号が承和(しょうわ)から嘉祥(かしょう)に改められ、仁明天皇が御神託に基づき、嘉祥元年848年(辰年 干支は戊辰)の6月16日、16種の神供(餅、糖菓子、水菓子)を献じ、疫病退散を祈願したのが始まりと言われています。

4年後に元号は仁壽に変わりますが、「めでたいしるし」である嘉祥神事は、宮中と幕府と庶民、また時代毎に内容は変容しつつも、脈々と受け継がれていきます。

鎌倉時代には、6月16日に通貨16枚でお供えのお菓子を捧げることが、吉例として定着しました。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。
武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」16 枚で買った食べ物を贈りました。(このことから嘉祥は嘉定とも書くようになります)銭の「嘉(か)」と「通(つう)」の音が、「勝(かつ)」に通じることから、武家社会でことのほか、尊ばれていったようです。
江戸幕府は、この日「嘉祥頂戴」と称し、江戸城大広間500畳に菓子を並べ、御目見得以上の諸士に一人一個ずつ取らせたといわれています。白木の片木の上に青杉の葉を敷いた上に積んだ饅頭、羊羹、うづら餅、きんとん、白団子、干麩、のし餅、お菓子の数は2万数千という記録が残ります。

宮中では天皇から1升6合の米を賜った臣下が、その米を虎屋か二口屋の菓子に換え、
この夜、宮中の16歳の女子は、振袖を切って詰袖にし(嘉祥縫・16歳の袖止め)嘉祥菓子を盛った土器に孔を開け、その穴から月を見る月見を成人儀礼としたようです。

また、福島県会津若松市では、6月16日の未明に採って梅干を作り、これを旅立ちに食えば災難を逃れると言う伝えがあり、これを嘉祥の梅というようです。

民間でも、16文で餅やお菓子16個を買って無言のまま食べると福を招く「嘉祥喰」という風習が生まれますが、嘉定通宝の流通量が少なかったので、代わりに米1升6合を持って餅・菓子を求めました。

いずれも除災招福に霊験あらたかとして続いたこの風習は、明治以降、廃れたものの、昭和54年(1979年)全国和菓子協会が、6月16日の意義を鑑み、「和菓子の日」を制定します。

徳川将軍家の産土神である日枝神社では、嘉祥の祝儀の6月16日が山王祭期間中に当たることから、毎年「嘉祥祭」を行い、当日、「菓子司」が神前にて「伝統の和菓子(煉切)」を作り神前に献じ、万民の「疫難退散」と「健康招福」を祈ります。

また、御所御用達だった虎屋は、古い記録を元に、宮中にお納めした嘉祥菓子を再現。
一年に一度、特別に土師(かわらけ)という白い陶器の上に外郎や松風等、個性豊かな7種類の和菓子を盛った「嘉祥菓子7ヶ盛」を予約販売しています。

本来、菓子の起こりは、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わし求めさせた不老不死の霊薬「ときじくのかくのみ・非時香菓」(時を定めずいつも黄金に輝く木の実)に由来するので、嘉祥という元号の始まりに出現した白亀も瑞祥の兆しで一致しますから、古来より伝わってきた吉祥菓子を、招福を願って、一度お求めになっては如何でしょう。

※「嘉祥」は1、6、16、そして7という数に拘る神事です。本来「16」が縁起の良い数と重んじられましたが、時代と共に16ではなく、1と6を足した「七嘉祥」と変わっていきます。

※写真は、大正期の「御菓子見本帳」にあった『嘉祥菓子』(左)と『嘉祥菓子』の照合図(右)

6月16日は、「嘉祥の日」です。疫病が蔓延していた平安時代の中期、白い亀が献上されたのを機に、元号が承和(しょうわ)から嘉祥(かしょう)に改められ、仁明天皇が御神託に基づき、嘉祥元年848年(辰年 干支は戊辰)の6月16日、16種の神供(餅、糖菓子、水菓子)を献じ、疫病退散を祈願したのが始まりと言われています。

4年後に元号は仁壽に変わりますが、「めでたいしるし」である嘉祥神事は、宮中と幕府と庶民、また時代毎に内容は変容しつつも、脈々と受け継がれていきます。

鎌倉時代には、6月16日に通貨16枚でお供えのお菓子を捧げることが、吉例として定着しました。室町時代の朝廷では饅頭などが贈答されていました。
武家の間では、この日に楊弓 (ようきゅう) という短い弓矢で的を射て、負けた者が勝者に中国の銭「嘉定通宝」16 枚で買った食べ物を贈りました。(このことから嘉祥は嘉定とも書くようになります)銭の「嘉(か)」と「通(つう)」の音が、「勝(かつ)」に通じることから、武家社会でことのほか、尊ばれていったようです。
江戸幕府は、この日「嘉祥頂戴」と称し、江戸城大広間500畳に菓子を並べ、御目見得以上の諸士に一人一個ずつ取らせたといわれています。白木の片木の上に青杉の葉を敷いた上に積んだ饅頭、羊羹、うづら餅、きんとん、白団子、干麩、のし餅、お菓子の数は2万数千という記録が残ります。

宮中では天皇から1升6合の米を賜った臣下が、その米を虎屋か二口屋の菓子に換え、
この夜、宮中の16歳の女子は、振袖を切って詰袖にし(嘉祥縫・16歳の袖止め)嘉祥菓子を盛った土器に孔を開け、その穴から月を見る月見を成人儀礼としたようです。

また、福島県会津若松市では、6月16日の未明に採って梅干を作り、これを旅立ちに食えば災難を逃れると言う伝えがあり、これを嘉祥の梅というようです。

民間でも、16文で餅やお菓子16個を買って無言のまま食べると福を招く「嘉祥喰」という風習が生まれますが、嘉定通宝の流通量が少なかったので、代わりに米1升6合を持って餅・菓子を求めました。

いずれも除災招福に霊験あらたかとして続いたこの風習は、明治以降、廃れたものの、昭和54年(1979年)全国和菓子協会が、6月16日の意義を鑑み、「和菓子の日」を制定します。

徳川将軍家の産土神である日枝神社では、嘉祥の祝儀の6月16日が山王祭期間中に当たることから、毎年「嘉祥祭」を行い、当日、「菓子司」が神前にて「伝統の和菓子(煉切)」を作り神前に献じ、万民の「疫難退散」と「健康招福」を祈ります。

また、御所御用達だった虎屋は、古い記録を元に、宮中にお納めした嘉祥菓子を再現。
一年に一度、特別に土師(かわらけ)という白い陶器の上に外郎や松風等、個性豊かな7種類の和菓子を盛った「嘉祥菓子7ヶ盛」を予約販売しています。

本来、菓子の起こりは、垂仁天皇が田道間守を常世国に遣わし求めさせた不老不死の霊薬「ときじくのかくのみ・非時香菓」(時を定めずいつも黄金に輝く木の実)に由来するので、嘉祥という元号の始まりに出現した白亀も瑞祥の兆しで一致しますから、古来より伝わってきた吉祥菓子を、招福を願って、一度お求めになっては如何でしょう。

※「嘉祥」は1、6、16、そして7という数に拘る神事です。本来「16」が縁起の良い数と重んじられましたが、時代と共に16ではなく、1と6を足した「七嘉祥」と変わっていきます。

※写真は、大正期の「御菓子見本帳」にあった『嘉祥菓子』(左)と『嘉祥菓子』の照合図(右)

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